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    意見陳述書           
2005・3・1O
                         控訴人  N
 私は1940年「尋常小学校」に入学し、翌1941年には「国民学校」と改称され、その年の12月8日に日米戦争が始まり、学校においても軍事優先の教育になりました。その後、敗戦に至り平和主義、主権在民、人権保障の憲法が制定されたことは周知のとおりです。

 私は主権者意識をもつ一人として意見を述べることとします。
 小学生の時、父親と共に、靖国神社を参拝すると境内に「戦場」が広がっていた、それは米軍と日本軍守備隊(アッツ島)との白兵戦を描いた一大絵巻で、参拝に来た国民の戦意高揚を図ったものです、大砲や戦車なども陳列され、子供ながらに戦慄を覚えたものです。62年たった今でもその光景を思い出します。この経験から靖国神社の存在は、昔も現在も戦争の象徴と思わずにはいられません。

 私は数年前から年一回ほどこの神社を訪れているので、いくつかの事例をあげてみます。

 1) 2003年12月8日に「防衛大学校の生徒が集団で毎年12月8日に参拝している」と耳にしたので、訪れた際、参道沿いに黒の漆塗り板に白文字で書かれた告知板『大詔奉戴62年祭』を見て、錯覚かと、わが目を疑ってしまった。この「大詔」とは紛れもなく、1941年12月8日、日米開戦の際に昭和天皇が発布した、開戦詔書を指します、当時学校でも開戦以降、敗戦まで毎月8日に『大詔奉戴日』と称して、毎月学校長が全校生徒を前に開戦詔書を奉読したものです。62年祭は「大詔奉戴日」を年祭として引き継いだものといえます。この神社がこの開戦詔書を奉戴することを60数年続けていること、しかも現在の参拝者に告知していること。天皇主権でない国民主権の時代に、この告知をする意図は何なのでありましょうか。この神社の関係者は国民主権と天皇主権との違いを理解しているのでしょうか。

 2) 昨年訪れた際に、「遊就館」の展示場でビデオのナレーションのなかで15年戦争(1931年〜1945年)について「もし今、現在でも日本が侵略戦争をしたと主張したとするならば、日本人の名誉と、誇りに対する罪ではないでしょうか。」と語られています。
 小泉首相は靖国神社を参拝をした際に問われると「二度と戦争をしてはならないと言う気持ちで参拝をしている」と繰り返し述べていますが、大詔奉戴祭を毎年行っている神社に参拝をする小泉首相の言葉を信じる気持ちにはなれません。

 梅原猛先生いわく『小泉首相が戦争を二度と起こしてはならないと言う気持ちで、あの無謀な戦争を始めた東条英機首相が祀られている靖国神社を参拝するというのはまったくの論理矛盾であると。また靖国を参拝するならば、もう一度英米と戦いますといって参拝するのが論理的一貫性をもつ行為であろう。と述ぺています。なお首相の「自衛隊が活動しているところは非戦闘地域だ」という言葉は、イラク駐留の自衛隊の安全をいかに図るかという真面目な議論を抹殺する暴言といわねばならない。しかし私のみるところ、このような非論理的な言論を公言するのは小泉首相のみでなく、現在日本で人気のある政治家の多くは小泉首相と五十歩百歩なのである。
 最近の世論調査では支持政党なしという人の割合がかなり多いが、そのような人たちは日本の政治に対する憂慮をプラトンや私のように感じているのであろう。政治家が真理と正義の言葉を語り、民主主義を健全にしてもらいたいと深い憂慮を抱きつつ祈るのみである。』と結んでいます。
                       −2005年2月1日朝日新聞 梅原猛著 反時代密語から

 上記の靖国神社の動向、小泉首相を始めとする政治家の不まじめな言動の数々に憂慮している私達は何を拠り所にしたらよいのか迷うところです。
 私は憲法第99条に注目します。なぜならこの条項は憲法擁護義務のある人を限定しているからであります。私達が注目するのはその中の裁判宮の職権行使についてであります。憲法を議み込み、学んでみて、解ったことがあります、それは同じ法であっても憲法と一般の法律の役割が違うことであります。
 法律は国民に向かっていて、国民の義務や責任を規定するものです。それに対して憲法は国民が国家の側に守らせる貴重な道具なのだということです。
 権力を持つものはつい、有無を言わせぬ力を自分勝手に乱用しがちなことは、古今東西同様です(日本の現状は、この点でまさに瀬戸際に位置しているとみえます)それでは国民が安心して生活できません。そのため権力を行使する人達に憲法に書いてあることを最低限守るように義務付けています。第99条はそのために存在しているのではありませんか。
 同時に憲法は第12条で国民に保障する自由と権利は、私たち国民の不断の努力によりこれを保持しなさいと義務を課しているのではないでしょうか。

 原審判決が憲法判断回避と、その回避の具体的根拠すら示すことなく出されましたので控訴審に主権者の一人として参加をしました。
 小泉首相は靖国参拝を今後も信念を持って続ける、と。それに第9条の改定についても表明しているので、憲法の平和主義を突き崩すことになる怖れがあります。この怖れを確信を持って否定できるでしょうか。
 憲法の平和主義を維持することは自由と権利を保持することにつながります。私は過去にも平和維持について私なりに「努力」をしてきました。将来についても、その努力を命あるかぎり続けることが、平和的生存権を確俣することになると確信しております。